地球最期の日192008年01月04日 17時30分16秒

京大農学部前
京大農学部前バス停

第九章 



 ホワイトハウスにエボラ大腸菌事件が報告された二日後、京泉は一人、日本に帰っていた。アメリカにいても彼の研究室の設備がない。思ったようにアイデアの有効性を実験やコンピュータ・シミュレーションで確認できない。京都の研究室のサーバーにつないで基本的な実験をすることはできるが、微に入り細に入る実験は無理である。京泉は抗生剤を飲み、エボラ大腸菌を体から駆除して帰国した。日本を万が一にもエボラ大腸菌で汚染させないためである。この処置は、日本が、いまだこの菌に犯されていないことが前提であるが、実際にはそれはほとんど期待できない。日本からアメリカ合衆国へ来るビジネスマン、観光客、学生の数を思えば、日本がエボラ大腸菌に汚染されていないなどということは絵空事でしかない。京泉が抗生剤を飲んだのは気休めにすぎない。

 京泉にはエボラ大腸菌を撲滅する方法のアイデアがあった。そのアイデアを検証するために彼は日本に帰ってきたのである。これができるのは世界に自分一人しかいないかもしれない。もし自分に何かあったら、人類は中世のペスト禍のように、いやそれ以上に、大打撃をこうむるだろう。人口は半減するどころではすまない恐れがある。ザイールでエボラ禍を抑えられたのは、村ごと隔離したからであった。同じ発想で隔離するなら、地球丸ごと隔離しなければならない。そんなことをしても何の意味もないのだ。

 エボラ大腸菌撲滅のための京泉のアイデアを実行するには生命科学とコンピュータに詳しい有能な助手が必要であった。ゲノムの意味を理解していて、それに関わるコンピュータ・プログラムを書ける人材が要るのである。京泉の研究室はそのための研究室なのだから人材には事欠かない。しかし、アメリカ合衆国の極秘事項を、今の段階で橋田を始めとする研究室のスタッフに告げることはできない。彼らに協力を仰げば、目的を説明しなくても、聡い彼らはそれが何を意味するかを悟るに違いない。彼らは聡いとはいえ、安全は只だと思っている日本文化の血を濃厚に受けている。まだ、若いから京泉ほどの国際性がない。だから、京泉は自分一人でやるしかないのだ。京泉は毎日、黙々と自らプログラムを組んでいた。学生に対する講義は必要最小限しか行なっていなかった。休講が続き学生は喜んでいた。しかし、これが済んだら補講だと京泉が思っていることまで学生達は気が付いていない。

 時間は容赦なく過ぎていく。コンピュータプログラミングという作業は猛烈に時間を要する作業なのである。企業のソフトウェア工場で一人が書くプログラムは、平均して一日二十行から三十行である。A4用紙一ページにも満たない。京泉は、彼が作ろうとしているエボラ大腸菌に対抗するためのゲノム処理プログラムは数百ページに及ぶだろうと踏んでいた。
 プログラミングとは、例えば、緻密に論理構成された文章を書くことに似ている。その文章が数百ページにもなるのである。内容に論理的矛盾があってはならない。その上、一字足りとも間違いがあってはならない。NASA、アメリカ航空宇宙局の金星探査衛星マリナー一号が、「,」と「.」を唯一箇所間違えた制御プログラムのために、五分後、軌道をそれ、自爆せざるをえなかったことが、かつてコンピュータの歴史にはあった。

 プログラムを作るという仕事は肉体的にも精神的にすさまじい重労働なのである。プログラミングの能力には、文章を書く能力に似て、人により百倍以上の差があると説く学者もいる。京泉は、一日で、エラー訂正も含めて三百行以上書くことができる。書くだけなら千行位は書くだろう。
 十日後の夜、京泉は、時間の節約のため、リュドミラの力を借りることを思い立った。会いたいという個人的感情がまったくなかったといえば嘘になる。しかし、何よりも、半年の余裕のうちの一月を既に使ってしまっていたからである。京泉はイーサン・ハートNIH所長にリュドミラを彼の元に派遣してくれるよう依頼するメールを打った。昨夜のことだ。彼から三分後に返事が届いた。

 オフィスではパソコンの電源は入れっぱなしで、メールソフトは常に開かれているものだ。だから、メールを出した相手がデスクに座っていれば、メールが到着すると、電話の呼び出し音のようなチャイムや好みに応じて着メロが鳴り、リアルタイムで到着が通知される。手軽さは、携帯電話のメールと同じである。相手がメールを読んで、すぐ返事をすれば、メールでチャットができるほどである。

 イーサンからのメールには、すぐにケリーとリュドミラに相談して、リュドミラの派遣には万全を尽くすと書いてあった。日本時間で昨夜のことである。そして、今朝、京泉が出勤してメールを開くと、リュドミラを可及的速やかに日本に送ると言う返事がイーサンから来ていた。京泉がメールを出した昨夜は、向こうでは朝だから、京泉が寝ているうちに全てが決まったのだろう。それに対してお礼のメールを打ち、いつものように京泉は教授室のデスクでプログラムを組んでいた。彼はこの歳になってもまだ自分でプログラムができるのである。これは珍しいことである。大抵の情報科学の教授はプログラミングなどできなくなっている。技術的にも、肉体的にも。

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