地球最期の日30 ― 2008年01月22日 20時02分49秒

2

 インド・チェンナイの事件は、WHOにとっては腑に落ちないことであった。エボラ大腸菌が発症するまでにはまだ三ヶ月は優にあるはずであった。今は、まだ潜伏期なのだ。京都大学の京泉教授がそう請合った。彼に間違いがあったのだろうか?この事件は、WHOから合衆国保健省、そしてCDCに時をおかず伝えられた。CDCに緊張が走った。これが事実なら、世界のあちこちで同じ事件が今日にでも起きる可能性がある。京泉教授がエボラ大腸菌の遺伝子の修飾部分を読み違えたのではないか。

 ホワイトハウスは、この報告に非常な危機感と興味をもった。これは本来、合衆国で起きるはずの事件であったからである。直ちにNIHとCDCの合同会議がベセスダのNIHで開かれた。そこでは、京泉情報の信頼性が議題となった。もし、彼の解読が間違っていたら、チェンナイと同じ事件が合衆国でも、そして全世界で起きる可能性がある。それが同時多発どころか、合衆国で一斉におきては、まだ、対処法ができていない。チェンナイが狭い地域であったから、今も封鎖と抗生剤で何とか対応できているというが、合衆国全域では封鎖も何もないのである。チェンナイもいつまで保つかわからない。インド全域に広がるかもしれない。そうなれば、パキスタン、バングラデシュ、チベット、そしてヒマラヤを越えて、中国に至るのはわけはない。そこには少なく見積もっても十三億の人間がひしめいているのだ。

 CDC副センター長ジェームズ・クレイマーは、NIHが無条件で京泉情報を信じていることが気に入らなかった。NIHがCDCをさしおいて主導的になっていることも気にいらなかった。この事態に現場で対処しているのはCDCであって、NIHではないではないか。どうしてCDCがNIHの学者先生ふぜいの風下に立たなければならないのかと内心憤慨していた。この種の権威的な人間というものはどこにでもいるものだ。

 NIHのビルディング31の一室では合同対策会議が開かれていた。会議は最初から緊迫した状況であった。
「NIHの報告では、このエボラ大腸菌は発見時点で半年の潜伏期があったはずですな。それがまだ三ヶ月はあるという今、なぜインドで発症したのですか。NIHではその評価をどうお考えでしょうか?」
 ジェームズ・クレイマーCDC副センター長は嫌味な聞き方をした。
「インドのエボラ事件が、我々が把握しているエボラ大腸菌によるものかどうかは、今のところ分かっておりません。偶然、この時期に別の類似のエボラが発症しただけかもしれません。あるいは、別の陰謀で同じような事件が起きたのかもしれません。まず、それを調査しなけれ議論にならないと思います。今日の会議もその為のものかと思っております」
 ケリー・フランシス・ヒトゲノム研究所長が答えた。
「そうは言っても、このインドの件は大腸菌によるものと報告されていますぞ。そんな偶然がそうそうあるでしょうかな。それを、そうやって、のんびりと調査とやらをしている間に、この国でもエボラが発症しないとも限らないんではないですか?」
「それに関しては、京泉教授の評価があります。彼は遺伝子の修飾を直接読んで半年と結論したのです。他に方法がないのであれば、彼を信頼するしかないではないですか」
「彼は神ではない。間違うということもあるでしょう。もし、間違っていたら、大変なことになるとは思いませんか。万が一、明日、合衆国でエボラ大腸菌によるエボラ出血熱が発生したら、あなた方はどう責任をとるつもりですか?」
「クレイーマーさん。あなたのおっしゃる通りかもしれません。京泉教授も間違うことはあるでしょう。しかし、このエボラ大腸菌を発見し、その対策まで考えてくれたのは、他ならぬ彼なのですよ。彼がこの大腸菌を発見してくれていなかったなら、そもそもこの会議さえ我々は持つことはなかった。何が世界で起きているかもわからず、ただ、呆然と事態を見ているより他なかったのではないですか?エボラがこの国でも発症する日まで何も知らずのんきに暮らしていたでしょうね。我々は、残念ながら、この点ではまったくの無力だったのです。彼は我々、我々とはNIHのことですが、より一歩進んでいます。我々も何時かは彼に追いつき、彼を追い越すことを目標に掲げています。しかし、今は率直に彼に頼るしかありません。それともなんですか、CDCには、もっと良い案がおありですか?」

 イーサン・ハートNIH所長がケリーを援護した。クレイマーの横柄な口調に対して慇懃な口調だった。CDCに名案などあるわけがないことは百も承知の上である。この件に関してNIHにない名案がCDCにあるわけがないのである。
「いや、私は何も京泉教授を責めているわけではない」クレイマーCDC副センター長は受け手に廻って弁解した。「しかし、もし、半年説が間違っていた場合、どうするんだね。対策はあるのかね?」弱気な質問に変わった。
「局所的な発生には抗生剤で対処しましょう。インドでやっていることです。それから、発生があちこちで起こるようなことがあれば、今、できているバクテリオ・ファージをそれらの地に配布していきます。それで応急的には対処できると思います」
 ケリーが答えた。しかし、これは本来、NIHではなくCDC自身が答えるべきことである。伝染病の統御は、疾病管理・予防センターという名の示すようにCDCの責任範囲なのだ。
「バクテリオ・ファージは十分な量できているのかね?」
「十分とは言いかねますが、抗生剤との併用でなんとかなると思います。それに、京泉説が誤っているという証拠はまだないのですよ」
 ケリーには姪のように可愛がっていたリュドミラが嫁いでいる京泉にどうしても思い入れがある。
「とにかく、エボラの発生を厳重に監視しましょう。CDCはその監視に当たってください。我々は、インドの事件の原因を探求します」

 イーサン・ハートNIH所長が結論を下した。
 ただちに、合衆国全土の州保健局、医療機関、空港、港、鉄道に対して、エボラ類似症例のレポートをCDC緊急オペレーション・センター・エボラ大腸菌調査チームに直接送るよう要請が出された。これまでにもエボラの疑いがある患者が訪れた場合、臨床医はその地区の保健当局に報告するよう通達がだされている。エボラの早期発症という不測事態に対抗する、これは、コンテンジェンシー・プランであった。

 CDC緊急オペレーション・センターの部隊はインドに飛んだ。問題の患者の大腸菌を入手するためである。それをもって、彼らは今度は日本に飛ぶことになっている。CDCはホワイトハウスを通じて日本政府に、またNIHを通じて京泉教授にこの事件を報告し、調査協力を要請した。当然のごとくに、協力を惜しまない旨の回答が双方から届いた。

 インドで採取したエボラ大腸菌を抱えたCDC緊急オペレーション・センター要員はインド・チェンナイから即日、シンガポール経由で関西国際空港に向った。彼らにとっては忙しい時間が続く。ワシントンDCからルフトハンザでインド・チェンナイに飛ぶには二十一時間を要した。そこから、休む間もなく日本に十二時間かけて飛ぶのだ。

 関空には厚生省の係官が大阪府警のパトカーを従えて出迎えていた。総理府官房の意を受けた厚生労働省から警察庁に協力要請を行ったのである。二台のパトカーは緊急走行で左京区吉田本町の京都大学に向った。

 京都大学生命科学研究科の実験室で、インドから届けられた大腸菌のゲノムが抽出され、塩基配列が決定された。そのデータは直ちに京泉教授に届けられた。京泉の検査により、このインドから来たエボラ大腸菌の遺伝子は、彼とリュドミラが発見したものと同じ遺伝子特徴を持つものであること。潜伏期を延長する塩基配列が切断されて無効になっていることが判明した。潜伏期は0になっていたのだ。

 なぜ、そのようなことが起きたのか?このような現象が突然変異で無作為に起きるとすれば、発症まであと三ヶ月あるなどとのんびりしたことを言ってはいられなくなる。直ちに、バクテリオ・ファージによる殺菌作戦を実施しなけらばならない。しかし、それには製造上の問題があった。昼夜兼行で作っても全地球生命に対応できる量になるにはもう四、五週間はかかる。こんなに早く発症することは予期されていないのだ。

 この患者に特異な環境はなかったかどうか、CDCからインド保健家族省に問い合わせが行なわれた。その結果、この大腸菌を持っていた患者は発症の三日前に放射能に被爆していたという情報がもたらされた。

「まったく、どうしてすべての情報を上げてこないんだ」
 CDC緊急オペレーション・センターは、インドの官僚体制の非能率性を呪った。
 原因は単純であった。放射能によりエボラ大腸菌のゲノムが損傷を受けたのである。その結果、潜伏期を延ばしていた遺伝子部分が切断され、エボラ遺伝子は拘束を失って直ちに発症したのだった。

 この事実は、WHOにもたらされた。各国政府は安堵の溜め息を付いた。インドの場合は、特殊な状況であった。しかし、放射線を扱う部門は、今後、特に注意を要する旨の通達がだされた。

 インド保健家族省から抗生剤の供給を要請されたWHOは、国際赤十字社を通じて世界主要国に抗生剤の提供を求めた。世界の製薬会社は、今、抗生剤の製造をフル稼働で行っている。しかし、それを無料で提供する訳にはいかない。製造原価は厳然として存在しているのだ。合衆国、EU、日本政府はインドへの政府レベルでの資金援助を決定した。日本は例によって合衆国から多額の資金拠出を要請され、例によってそれを飲んだ。この国には自己の意思がないようであった。民間レベルでは、インターネット、携帯電話を使っての「インドに薬を」キャンペーンが展開された。製薬会社は政府からの要請を受けて、工場出荷価格での抗生剤提供を涙ながらに飲んだ。ここで薬九層倍の貪欲な精神を発揮しては世論から袋叩きに合いかねない。

 チェンナイとその周辺地域には大量の抗生剤が、北アメリカ、日本、欧州から連日のように航空便で届けられた。危機は克服されたのだ。ラジの妻も二人の子供も、まだ毒性蛋白濃度の低い間に大腸菌を殺菌するためのセフェム系抗生剤を投与され、峠を乗り越えていた。

 このエボラ大腸菌の危険性は、一挙に大量の人間が、究極的には地球全人類が、一斉に発症を起こした時に危険なのであり、散発的に発症する分には抗生剤で対抗できるので、発見さえ早ければ、それほど危険ではないのである。しかし、それでは、すぐにまた周りから感染するだろう。いたちごっこになり、最後は人類が負ける。これはロバートのコンピュータ・シュミレーションが証明したことであり、その危険はまだ去っていない。バクテリオ・ファージが大量に備蓄できるまでは、まだ、安心はできないのだ。