地球最期の日272008年01月16日 22時03分02秒

第十一章

 京都からワシントン・ダレス国際空港に下り立った京泉夫妻はその足でNIHに向かった。車はリュドミラの運転するブルーバードである。茨木の家を出てから丸一日かかっている長旅で疲れていたが、そんなことは言っていられない。京泉は、この四週間、プログラム開発と同時にゲノム解読の方法をリュドミラに教えていた。そうしなければ、彼女がプログラムを作れないからだ。京泉は、彼が考えているエボラ大腸菌撲滅の方法を実現できるのは彼しかいないことを知っていた。だから、もし、自分の身に何かあれば人類はどうなるのかという恐怖を持っていたが、リュドミラにそのすべてを伝授して肩の荷をおろした。

 リュドミラは彼の妻であると同時に彼の弟子でもあった。それも極めて優秀な弟子であった。京泉は妻として、弟子としてリュドミラをこよなく愛していた。弟子としての、プログラミングの腕はリュドミラの方が彼より上であったし、妻としては、尻に半分ほど敷かれている気がしている。リュドミラは賢いからそれとあからさまには感じさせないが、なんだか結果として、いつもリュドミラの言うなりになってしまっていて、逆らえないのだ。出会いの時は、リュドミラはどこか怖々としていた。自分の方が強い立場だったような気がする。いつからこうなったのかわからないが、ふと気が付くとそうなっていた。恋人は楽しいゲームソフトのようなものであるが、それが結婚というインストールのし直し作業をして妻にバーッジョンアップするとLINUXのような管理ソフトに変貌してしまうのだと京泉はつくづく思った。そうは言え、京泉はリュドミラが自分より優れ、自分より強い面をもつことが嬉しく、リュドミラにああだこうだと指示されることに喜びを感じて楽しくもあった。

 リュドミラの運転するブルーバードはポトマック川を渡り、やがてNIH構内に入った。駐車場に車を置くと、京泉とリュドミラはNIH・ヒト・ゲノム研究所の有るビルディング31に入った。ケリー所長の部屋に急ぐ。
「ケリー、今、帰ったわ」
「リュドミラったら。鉄砲玉のように飛び出していって、やっと帰ってきたわね。お帰り。なんだかまた一層綺麗になったわねえ」
 リュドミラは新妻の美しさを発散していた。女性のケリーでさえ、彼女の美しさが際立っていることが分かるほどだ。
「教授。わざわざ再度合衆国にお出で頂き、どうもありがとうございました。それに、リュドミラがお世話になりました」
 ケリー・ヒト・ゲノム研究所所長は少し遅れて入って来た京泉に挨拶した。ケリーの部屋の近くまでくると、リュドミラは一人走って部屋に飛び込んできたのだ。
「いえ、こちらこそ、リュドミラの件、ご配慮頂きましてありがとうございました。彼女がいなかったら、こんなに早くはプログラムの完成はできませんでした。彼女のプログラミングの腕は僕より上だということが十分に分かりましたよ」
 京泉は腕をケリーに延ばしながら、お礼と挨拶を返した。夫のほめ言葉にリュドミラは恥ずかしそうに下を向いて微笑んでいる。ケリーは、京泉が自分に対して「ミラー博士」ではなく、「リュドミラ」と呼んでいることに気付いていた。が、四週間一緒に働いていて、もう親しい仲なのだから、そんなものかと思っただけであった。
「ケリー、すぐに皆に説明したいの、会議の準備していただけた?」
「ええ、三十分後に皆、集まるわ。第一会議室よ。それより、あなた方、空港から直行でしょ?一休みしたら」
「ええ、ありがとうございます。じゃ、ちょっと部屋で休んできますね」
 リュドミラはそう言って、横の京泉を見た。ケリーはそんなことには気が付かず、京泉をどこで休ませようかという思いで頭が一杯だった。
「それでは、教授は、どうぞこちらのソファをお使いください。今、お飲み物でもお出ししますね」
 ケリーは自室のスイーツの応接用のソファを手のひらで示した。京泉はリュドミラとケリーを交互に見ながら、
「ああ、どうも。そうですねえ。でも、ちょっとリュドミラの部屋によっていきます。会議前にもう少し打ち合わせておきたいことがありますので」
 そう言って、京泉はリュドミラの後についてケリーの部屋を出た。二人は肩を並べて十メートルほど離れたリュドミラの部屋に向かった。ケリーはドアの外に出てその二人の後姿を見送った。京泉の肩の辺りまでしかないリュドミラの耳元に身をかがめて何かをささやいている京泉と、それを聞きながら両手を口に当ててくすくす笑っているリュドミラの姿を見ながら、ケリーは肩をすくめただけだった。二人は既に夫婦になっていると知っても、別に驚きもしなかっただろう。

 リュドミラの部屋に入ると、彼女はドアを締めた。いつもは開けっ放しなのだ。リュドミラは京泉にしなだれ掛かった。京都を出てから、一度もキスをしていない。二人は接吻をかわした。彼女は合衆国の人間なのだ。常に愛の証しを必要としていた。
「何かお飲み物作るわね。何が良い?」
 リュドミラは京泉から体を話すと尋ねた。
「君の作るもの」
 いつもの京泉の返事だ。
「はいはい」
 リュドミラは熱いコーヒをいれてくれた。ネスカフェではあったが。この部屋にはソファなどない。リュドミラは自分の椅子に、京泉は来客用の椅子に座っている。ノックがした。
「は~い。どうぞ」
「なんだい、リュドミラ。今日はドアを締めて」
 そう良いながら、ドアが開いてロバートが顔をのぞかせた。
「あ、お客さんですか。どうも」
「ボブ、丁度いいわ。入って。紹介するわね」
 ロバートは、ドアを全開にしてはいって来た。
「こちら、京大の京泉教授。知ってるわよね?」
 紹介は目下の者、親しい者を先にする。ロバートは自分から先に紹介されるとばかり思っていたから、内心面食らった。しかも相手は大物の京泉教授だと言う。リュドミラはそんな礼儀も知らなかったのかと意外に思った。
「こちら、ロバート。私の先輩です」
 リュドミラは二人の間に入ってそれぞれを紹介した。二人は握手を交わした。
「先生にお目にかかれて光栄です。今日の会議の主役でいらっしゃいますね。それに、この分野で先生の事を知らない人間はいませんよ。リュドミラが紹介の順を間違えたようで、恐縮しています」
「あ、いえ。こちらこそよろしく。あなたのことはリュドミラからいつも聞いていましたよ」
「リュドミラが僕のことを先生に話していたんですか?なんて言ってました?あまり良いうわさじゃないでしょ?」
 京泉が答える前にリュドミラが口を挟んだ。
「あのね、ボブ。それからね」
 リュドミラは言い淀んだ。ロバートの自分に対する気持ちはよくわかっている。
「彼は私の夫なの。私たち結婚したの。日本で」
 ロバートは一瞬、あっけにとられたような顔になった。暫く口をきけなかった。が、すぐに立ち直った。それで、彼の紹介が先だったのだと理解した。
「そうか、リュドミラが結婚したのか。それはおめでとう。お祝いしなくちゃあね」
「ありがとう。でも、まだね。今度の事が済むまでは新婚旅行もお預けなの」
「わかった。解決したら、盛大にお祝いをやろう。さて、それでは、お邪魔虫は消えるとするか。先生、それでは失礼します。リュドミラ、またね」
 そう言って、ロバートは部屋を出て行った。傷心の思いを引きずって。

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