火星からの使者 82007年10月15日 14時01分55秒

五章



「アーサー、このゲノムでどんな生物ができるか試してみないか?」
 火星生命発見を発表した翌日の午後、ヘンリーはアーサを自室に呼んで言った。
「良いのかい。そんなことして」
「良いに決まってるじゃないか。どこが悪いんだい」
「だって、何が出てくるかわからないじゃないか」
「だからやってみるんだよ。別に恐竜がでてくるわけじゃない。精々、微生物だろ」
「その微生物がエイズみたいなウィルスだったら?」
「こいつはDNAだよ。RNAじゃない。それにこの長さだからウィルスほど下等じゃないな。大腸菌みたいなものさ。これからどんな生物が出てくるか見たくないのかい?」
「そりゃ、見たいよ」
「じゃ、やってみよう」
「そうだな、やろうか」

 二人はヘンリーの居室を出て実験室に移った。情報を取り扱っている分にはコンピュータさえあれば何でもできるので居室で済むが、実際に生物そのものを取り扱うには様々な機器がおいてある実験室に行かなくてはならない。

 そのゲノムは短いものだった。およそ八十万塩基しかない。その程度のDNAなら研究所のDNA合成機で作る事が可能だ。京泉に頼めば彼の作ったゲノム・シミュレータで実際にそのゲノムから生まれてくる生物をコンピュータの中に作り出しコンピュータ・グラフィクス技術を使ってその生物の姿を見ることができる。しかし、彼らは日本にそれを依頼する事をいさぎよしとしなかった。それ以上に、このゲノム情報は合衆国のものであり、それをただで日本にくれてやることはできないと思っていた。

 あの国は黙っていると、何でも只乗りしようとするのだ。合衆国の核の傘の下にいなければ、いまだって、何時、北朝鮮やら中国やらの虎狼が牙を剥いて襲いかかってくるかわからない。なのにアメリカ軍は日本から出て行けとわけの分からないことをいっている。中国などは、資源が出ると見るや、今ごろ思い出したように東シナ海に浮かぶ小さな岩の端くれのような日本の島を、あれは実はわが国の領土であると、ぬけぬけと言い出しているではないか。その内に、中国東方に浮かぶ、今は日本とか呼ばれている四島は実は中国固有の領土であると言わない保証はない。ちょっと前まで、あの島は中国のものであった。その証拠に漢委奴の国王を「つい最近の」、つまりほんの二千年ほど前の、漢の時代になっても封じているではないか。志賀島で発見されたあの金印がその証拠であると。

 只乗り根性の国の日本などにうかうかとゲノム情報を渡すことはできないのだとNASAは思っていた。それに、もっと長いゲノムなら、とてもDNA合成機で作る事はできないが、この程度の長さならできるのだ。京泉教授のゲノム・シミュレータの力を借りるまでもない。

「で、DNA合成はできるとして、そのDNAをどうやって活性化するんだい。作ったゲノムを入れる細胞は火星でも見つかってないよ」
「それは、大腸菌の細胞ででも代用するしか無いなあ」

 DNAというのは生物の作り方を書いたレシピだ。設計書と言ってもいいし、コンピュータ・プログラムのようなものと言ってもいい。似たようなものだ。それだけでは生物はできない。それを読んで実際に作るハードウェア、つまり機械が必要なのだ。それが細胞内にある色々な器官だ。細胞は生物を作る機械であり、ゲノムは生物の設計書だ。コンピュータで言えば、細胞はハードウェア、ゲノムはソフトウェアだ。ハードウェアは、ソフトが無ければただの箱だが、ソフトウェアもハードウェアがなければ唯の文字にすぎない。コンピュータが動くにはハードとソフトの両方が必要なように、生物ができるには細胞とゲノムの両方が必要なのだ。

「でも、大腸菌の細胞と、このゲノムを持っていた本来の火星の生物の細胞とはちがうだろうからうまく行かないかもしれないな。大腸菌のゲノムの塩基長は四百八十万だけど、これは八十万しかない。かなり違うよね」
「そうだけど、うまくいくかもしれない。こればかりはやってみなきゃわからないよ」

 アーサーは取り越し苦労しているが、ヘンリーは楽観的だ。
 二人は早速、ゲノムの合成を始めた。ゲノムは二時間でできた。完全自動化されているから、ゲノム情報、つまり、例の「ACAATGACGGACCATA・・・」というようなゲノムの文字列をコンピュータ経由でDNA合成機に入力してやれば、そのとおりのDNAができてくる。原理的には人間のゲノムだってできるが、三十億字もの長さがあるので今の技術では途中で切れてしまうのだ。リンゴの皮を一個分途中で切らずにナイフでむくのは難しいが、長いゲノムを作るのははもっと難しい。

 二人は、次に大腸菌の細胞から顕微鏡下でその大腸菌の中にある本来のゲノムを取り出した。こうして、大腸菌のゲノムなしの細胞カプセルができあがる。コンピュータのハードディスクをフォーマットしてウィンドウズやリナックス、あるいはユニックスというOSを消し去り、ハードウェアだけにしたようなものだ。何かゲノムを入れない事にはその細胞は働く事ができないし、生き続けることもできない。ヘンリーは先程作った火星生物のゲノムを極細の注射針のようなガラス製のスポイトで吸い上げ、そのカプセルと化した細胞に顕微鏡下で慎重に入れた。ヘンリーはこうして作った新しい生物を細胞培養装置の中に入れた。これで数時間経てば火星生物がその培養装置の中にできているかもしれない。

「さてと、コーヒでも飲んで一休みするか」
「そうしよう」
 二人はヘンリーの部屋に戻った。