小説: 二人の大統領 112006年10月15日 18時54分46秒

DNAの二重螺旋
フランシス クリックのDNA二重螺旋(ゲノム)
http://profiles.nlm.nih.gov/SC/B/B/W/B/  による


第六章

 アメリカ国内に潜む北朝鮮のエージェント達は合衆国大統領のゲノムを入手するよう指令を受けて頭を抱えた。
 そもそもゲノムの意味が分からない。どうやって入手できるか、まったく何も分からないという手探り状態から始めなければならなかった。
 最初は大統領を拉致しなければならないのかという意見がエージェントの間で出たくらいである。
 そんなことができるくらいなら、そもそもゲノムなど不要なのだ。大統領を暗殺してしまえば、問題は大方解決するだろう。宣戦布告に熱心なのは現大統領なのだから。
 しかし、スーパーパワー、アメリカ合衆国の大統領の暗殺など、アジアの微小国のエージェントには不可能事だ。ジョン・F・ケネディ暗殺の時のようにアメリカ合衆国自身の政界・経済界のWASPエスタブリッシュメントがぐるになってやるくらいしか合衆国大統領の暗殺などできるものではない。まして、合衆国大統領を拉致・誘拐などできるわけがないのだ。
 しかし、ゲノムは細胞から採取するのだ。どのようにして大統領に近づき、その体から細胞を採取できるのか、エージェント達は頭を抱えざるをえなかった。
 祐介のような一民間人の拉致・誘拐と異なり、アメリカ合衆国大統領のゲノムを入手することは、どう考えても不可能な仕事に思えた。

 エージェント達は手分けして、インターネットでゲノムの調査を行った。
 その結果いろいろな事が分かってきた。
 ゲノムは、大統領の体のほんの小さなかけらさえあれば取得できる。毛髪の一本が入手できれば、それで十分だった。光明が見えてきた。
 大統領の食事の食べ残しには唾液が付着している。その唾液の中には頬の内側の粘膜から剥がれ落ちた細胞が大量に含まれているはずだ。
 あるいは、クリーニングに出されたワイシャツでも良い。首筋、手首のようなところは、襟、袖口の鋭角な布の端に皮膚が削られて垢として付着している。そこから大量に細胞を採取することができる。
 つまり、ゲノムを得るためには、生きた大統領に体に触る必要はなかったのだ。
 エージェント達はこれに目をつけた。
 ホワイトハウスに出入りのラウンドリーから大統領の細胞を採取しようというわけだ。何よりも、ラウンドリーにはセキュリティは無いに等しいのが良い。
 クリーニングに出されたワイシャツを守るほど、財務省シークレットサービスは暇ではない。
 エージェントは、何日もかけてホワイトハウス出入りのラウンドリーの動きを探った。
 路上で車を襲い、ワイシャツを奪うか、夜、店に侵入して奪うか。どちらにしても大したことではない。汚れたワイシャツの二、三枚が奪われた事件に警察は頭を傾げて捜査を打ち切るに決まっている。
 洗濯物には誰の物かを記したタグが付けられているはずだ。符号化してあるかもしれないが、それでも大統領の衣類はなんとか分かるだろう。
 彼らは、店に侵入して大統領の衣類を盗むことに決めた。もっとも安全で、怪しまれ難い方法だ。

 次にしなければならないことはゲノムの解読であった。ゲノムにはA、C、G、Tという四種の文字に対応する四種の化学物質が三十億個、一列に並んでいる。その並び順を決定するのだ。
 これも北朝鮮ではできない。アメリカ合衆国の専門企業に依頼することにした。依頼された企業はゲノムの文字配列を決定できても、それが誰のものなのかは分からない。登録されている指紋でなければ、誰の指紋かわからないのと同じことだ。だから、何の危険もない。
 それに、そもそも、そのような企業にとって、これはビジネスだから、彼らは誰のゲノムかなどにまったく興味はない。
 毎日、何千件もの民間人からの注文をこなしている彼らには、ゲノムの出自などどうでもいいのだ。
 自分のゲノムを解析して保存することは、ちょうど、血液型を知るようなもので、この頃の流行になっていた。多くの人々が、このような企業に自分の細胞を送り、ゲノム配列の結果をCDやフラッシュ・メモリーに書き込んでもらっていた。企業にとってはゲノムが金になるという事実だけが重要だった。

 こうして決定された文字配列はゲノム情報として、北朝鮮に送られる。ゲノム情報は、単に四種の文字の列だからインターネットで送ればいい。時間の節約になる。
 ゲノム情報の運送に要らぬ時間をかけていては、その分、成長の加速度を強くしなければならず、それはクローン作りの成功率を低くする可能性がある。
 インターネットで送られてきたゲノムの文字配列から成長促進因子部分を見つけ出し、その因子を書き換えて、三十倍程度に加速処理したゲノムの文字配列を作る。
 これは北朝鮮にいる京泉教授がやってくれる手はずになっている。
 その配列を、再び、インターネットでアメリカ合衆国のエージェントに戻し、その配列に従って、ワイシャツから採取した実際のゲノムに手を加えるのだ。
 これもアメリカ合衆国の生命科学専門の企業に依頼すれば簡単だ。彼らは、ゲノムの文字が何を意味するのかは分かっていないが、その文字を書き換えることは得意なのだ。
 こうして出来上がった目的のゲノムは情報ではなく物質だから、インターネットでは送れない。これは何らかの方法で北朝鮮に運び込まなければならない。しかし、元々は大統領のワイシャツに付着していた垢にすぎない。合衆国のパスポートコントロールも手荷物検査も何の問題もない。
 かくして安州に運び込まれたアメリカ合衆国大統領のゲノムは、選びぬかれた健康で若い経産婦の卵巣から採取された卵子の中身と入れ替えられ、彼女の子宮に入れられた。
 あとは、アメリカ合衆国大統領が生まれてくるのを待つだけでよい。
 通常なら二百八十日で生まれてくる嬰児が、この特殊加工されたゲノムの場合、三ヶ月で生まれて来るのだ。

 アメリカ合衆国大統領のクローンの種をその子宮に抱いた女は、北朝鮮からの入国ということで、合衆国パスポートコントロールに無用な疑いを持たれないよう大事をとって、香港、シンガポール、ロンドン経由で比較的入国審査が簡素なカナダの観光地モントリオールに入り、そこからアメリカ合衆国に潜入した。カナダ-アメリカ合衆国間は比較的入国審査が楽なのだ。言うまでも無くパスポートは偽造品だ。
 そして、彼女は北朝鮮エージェントのアジトに潜伏したのだ。
 如何に厳しい入国審査官でも、まさかアメリカ合衆国大統領がその女の腹の中にいるとは、どんなに想像力を逞しくしても考え付くはずもなかった。
 子供の、あるいは、成人したアメリカ合衆国大統領をアメリカ合衆国に入国させるより、何の変哲も無い女性を観光客として入国させるほうが遥かにた易い。
 嬰児は三ヶ月で生まれる、生まれた後は、急速に育っていくであろうその子を育て、洗脳することが女の次のミッションになる。何のことは無い、母親と同じことなのだ。彼女はアメリカ合衆国大統領の母親になるのだ。