火星からの使者 142007年11月03日 20時34分59秒

七章

 クパチーノから始まった火星バクテリアの感染はとどまるところを知らなかった。最初の感染者であるヘンリー、ノーマ夫妻、そしてアーサーは既に還らぬ人となっていた。ヘンリーが運び込まれた病院のあるマウンテン・ビュー市も全滅し、入院患者だけではなく、一般市民も自宅に居るままこの病気の特徴である静寂さの中で息を引き取っていた。マウンテン・ビューはゴースト・タウンと化した。
 一部の人々は感染したまま近隣の都市に避難したので、これが空気感染以上のスピードで火星バクテリアを広めることとなった。マウンテンビューを中心としてサニー・ベール、サンタ・クララ、ミルピタス、パロ・アルト、メンロ・パークへと感染区域は急速に広がりつつあった。南方のサンノゼの陥落は目前であり、北方のサンフランシスコも一両日の内に火星バクテリアの軍門に下るのは疑いようもない。病魔はサンフランシスコ湾西側を走るフリーウェイ、ワン・ノー・ワンに沿って南方からサンフランシスコのダウンタウンに駆け上がっているのだ。

 マウンテン・ビューは、南北に細長いサンフランシスコ湾の南端近くにある。その周辺で南から北上してきた道はYの字型に分かれ南北に細長いサンフランシスコ湾を東西から包むように北方に向かって走っている。火星バクテリアはこの道に沿って自動車の移動とともに時速八十キロメートルで驀進していた。サンフランシスコ湾の東岸は880号線がミルピタスから北上している。西海岸切っての名門校カリフォルニア大学バークレー校=UCBのあるバークレーの陥落も既に視野に入っていた。湾の西側でサンフランシスコが陥ちる頃、ベイ・ブリッジで結ばれた東側でバークレーもほぼ同時に陥ちることとなるだろう。

 UCBの教官たちは、インテリの常として脅威には敏感である。君子危うきに近寄らずだ。今度の場合、「危うき」の方からすり寄って来たので彼らは早々と逃げ出してしまっていた。彼らは異星生命体の恐ろしさを充分に想像できる能力を持っていた。彼らはシリコン・バレーの事件を知るや、学生、一般事務職員を始め、全学に避難警告を発した。こうして連邦政府による戒厳令が敷かれ、サンフランシスコを中心とする西海岸一体が封鎖される以前に逸早く中部や東部に逃れていた。

 対抗法のないバクテリアの進撃を止める方法はただ一つしかない。人の動きを止める事である。連邦政府はカリフォルニアを捨てざるをえなかった。それは、苦渋の決断であった。しかし、小さきを忍ばざれば、大謀を乱すことになる。カリフォルニアを捨てなければ、アメリカ合衆国全体が、そして地球全体が危機に陥るのだ。それは解決法のない危機であった。合衆国本土が陥ちれば、カナダ、アラスカ、メキシコと、国境線を接する国や州が次々と陥ちていく。それどころか、空港、港湾を伝って、火星バクテリアは世界に蔓延していく。地球は、今は存在していない「過去」の亡霊の火星生物に征服されるのだ。

 サンフランシスコ市庁ではワン・ノー・ワンを駆け上がって来る火星バクテリアにどのようにして対抗するか侃々諤々の議論がなされていた。正確に言えば、ワン・ノー・ワンを駈け上がってくるバクテリアだけではない。シリコン・バレーはサンフランシスコの後背地である。サンフランシスコそのものと言ってもいいくらいだ。サンフランシスコとシリコン・バレーの間の人の往来は激しいので、既に火星バクテリアはサンフランシスコのダウンタウンに入り込んでいた。だから、連邦政府はサンフランシスコをも見捨てたのだ。

 外部に通じる道には軍によりバリケードが張られた。原野には鉄条網が張られて要所要所には装甲車が置かれ宇宙服を着た兵達がサブマシンガンを構えて、暴徒化する恐れのある市民たちに対峙している。合衆国市民を守るはずの軍が市民に銃を向けているのだ。しかし、そうしなければアメリカ合衆国が、そして地球が滅びるのである。火星バクテリアの感染力の強さは地球生物とはまったく異なり、想像を絶するものである。ただ一人でもここを通せばその一点が新たな感染源となって病魔が四方に急速に広がっていく。市民に向けられているように見える銃は、市民の体を乗っ取った火星バクテリアに向けられているのである。兵士はそのように訓令されていた。

 市内は感染域がまだら模様になっていた。まだ感染が確認されていない地域は、感染が確認されている地域に対してバリケードを張り、外からの侵入を防いでいた。空気感染する火星バクテリアに対してバリケードがいつまで有効かはわからないが、少なくとも保菌者が入り込むよりはましだろう。観光客でごったがえす繁華街のユニオン・スクエアーはシリコン・バレーとの往来も激しいので、早い時期に完全な感染域となっていた。その隣り合わせのテンダー・ロイン地域は普段は一般人が足を踏み入れるのも危険な貧民窟とされ、人々は近寄らない。そのため、ここは非感染地域になっている。発症していない人々はここに逃げ込もうとしたが、道路という道路はテンダー・ロイン地域の住人によりバリケードで封鎖されていた。

 サンフランシスコ市長チェスター・フェラーズは市役所内に特別対策本部を設けて、この事態への対応を立てようとしていた。何よりも先に、市民には現在地を動かないようにテレビ、ラジオ、新聞、インターネットなどあらゆるメディアを通じて呼び掛けた。未感染の者が動けばどこで感染するかわからない。既感染の者が動けば、どこに感染を広げるか分からない。動かないことが現時点で取る事ができる最善の手であった。

 それと同時にフェラーズ市長は連邦政府に対して宇宙服と殺菌薬を可能な限り送るよう要請した。体の中に入った火星バクテリアに対する薬剤はないが、呼吸などで空中に吐きだされ空気感染の原因になっている火星バクテリアは、強力な殺菌剤で死滅させえる。空中からのその薬剤の散布で吸気からの感染はかなりの程度押さえられるだろう。体に付着した火星バクテリアは経口的に体内に入っていく。分裂が極端に速いので一株でも体内に入ったら助かる術はないが、町中を殺菌剤の泡で埋め尽くすことによって、新たな感染はかなり押さえられるはずである。

 フェラーズ市長はテレビとラジオでパニックを起こしている市民に冷静になるように訴えた。
「サンフランシスコ市民の皆さん、我々は今、未曾有の危機にあります。火星に由来するバクテリアのために毎日、数千人の市民が命を失いつつあります。この三日間で、既に三十万人の命がこのサンフランシスコで失われたと推定されます。シリコン・バレーの街々は全滅の危機に瀕しています。マウウテン・ビュー、サニー・ベール、ミルピタス、パロ・アルト、メンロ・パーク、サンマテオ、ミルブレー、ダリー・シティーなどは恐らく全滅しております。これらの街々は早い段階で感染したため、火星バクテリアの特性が分からず、そのような悲しむべき事態に陥りました。これらの街々の犠牲の上に、火星バクテリアの特性が我々にも少しづつですが分かりかけてきました。その事実が教える最良の対処策は何よりもまず動かないことです。動けば感染します。繰り返し言いますが動けば感染するのです。皆さんは家の中に閉じこもり、窓を始めとする外気への導入口は、すべて、いいですか、すべてです、完全に閉じて下さい。換気扇も、猫の通り道のドアの穴も、あらゆる穴は閉じて、家に閉じこもって下さい。既に連邦政府は空軍による市街地の空からの殺菌を始めております。市職員が宇宙服を着て、皆さんの家に殺菌済みの食料と水を運び始めています。ですから、どうか、決して家を出る事なく静かに我々の到着を待っていて下さい。サンフランシスコ市民の皆さん、ホワイトハウスは日本の京泉教授に、あのエボラから我々を救ってくれた京泉教授に、再度援助を依頼し、火星バクテリア撲滅のための薬剤開発に最大の努力を傾注しています。もう少しの辛抱です。我々は忍耐によってこの危機を乗り切ろうではありませんか」

 フェラーズ市長は切々と市民に噛んで含めるようにして訴えた。
 火星バクテリアは感染したら最後、三日以内に死を迎える。それを防ぐ手立ては現在のところ見つかっていない。しかし、市民に希望を持たせる必要がある。人は絶望には耐えられないのだ。「京泉」の名はその希望であった。

 連邦政府はサンフランシスコ市長の要請を可能な限り実行した。カリフォルニアを隔離した以上、それは最低限やらねばならないことであった。しかし、実のところ、連邦政府自身も灰神楽の立つような忙しさだった。ワシントンDCはまだ感染地域から遠いとは言え、感染を知らずにサンフランシスコ国際空港から合衆国各地に飛び立った患者が多数いるはずである。彼らを隔離し、彼らが通った経路上の人々、接触した人間をすべて洗い出し、隔離しなければならない。同じ航空機に乗っていた乗客、乗務員は既に名簿で割り出し隔離したが、中には偽名をつかっているものもあり完璧というわけにはいかない。

 すでに合衆国のいくつかの大・中都市では感染がCDCに報告されつつある。それらの地域は地域内の殺菌と感染者の隔離におおわらわなのである。それらの地域にも宇宙服が必要ですべてをサンフランシスコに回す事はできない。しかし、それをサンフランシスコ市長に言っても始まらない。市民の不安を増大するだけのことだ。殺菌剤の空中散布はフェラーズ市長の要請を受けるまでもなく既に早い時期にCDCにより計画されていた。従って、フェラーズ市長の要請を受けたその日の内に殺菌剤を満杯にしたB52ストラト・フォートレス大型爆撃機の大編隊がアイダホのマウンテン・ホーム空軍基地を飛び立つことができた。カリフォルニアの感染地域は空からの殺菌を受け、少なくとも現在、空中に舞っている火星バクテリアは殺菌することができている。

 サンフランシスコは自らの意思でも自らを隔離した。聡明なフェラーズ市長が市民の説得に成功したのだ。空からの殺菌剤散布により、市内の感染域の拡大は起きずに済んだ。今は、既に感染した患者とその空気感染の範囲内にいる人々だけが危険にすぎない。つまりは危ないのは患者と一つ屋根の下に同居しているその家族だけだ。隣家は殺菌剤の空中散布ですでに、確実とは言えないまでもほぼ安全域になった。殺菌剤の空中散布は日に数度行われている。その間に宇宙服を着たCDCの係官が空気取り入れ口に詰めるフィルターを各家庭に家の外側から設置して回った。これで新鮮な空気も確保できる。季節が春であったことも不幸中の幸いだった。暖房も冷房も必要がないからだ。それにこの病原体がバクテリアのように大きなものであったことも幸いした。ウィルスであったら、ことはこんなに簡単ではない。彼ら--「それら」かもしれない--は素焼きの陶器を通り抜けるほど微細なのだ。

 連邦政府は西海岸一体に戒厳令を出し、まだ汚染されていない隣接地帯に幅百キロメートルの無人ベルト地帯を作って封鎖していた。宇宙服を着た軍が出動し封鎖地帯を守っていたが、三日もたつとその必要はなくなった。封鎖地域内の住人は感染すれば、三日以内に死んでしまうからだ。カリフォルニアは南はロスアンゼルス北方百キロメートル、北はゴールデンゲートブリッジを越え、オレゴン州境を境にしてほぼ全滅していた。サンフランシスコでは市長の指導で何人かは生き残れるだろうが、全体としてみると二千万人の人口がカリフォルニアだけで失われたのだ。