地球最期の日52007年12月02日 13時50分14秒

第二章



「先生、何とかならへんもんですかね。僕たち助手の薄給では、牛丼が、もし、このままなくなっちゃうと、とても辛いんですよ」

 京都大学大学院生命科学研究科の京泉祐介教授の研究室でのことである。京泉第二研究室にふらりと立ち寄った京泉に、助手の橋田が話し掛けた。教授というと、雲の上のような人に感じられるが、橋田は四回生の時から当時助教授だった京泉に師事し、修士、博士、助手と、かれこれ八年は一緒にいて、京泉の性格を良く知っているので、気楽なものなのである。京泉は教授になっても学生気分が抜けていないのか、まったく権威的ではない。学生や部下の教官の面倒見もよい。だから、橋田も気軽に思っていることを話すことができる。橋田が京泉にぐちを言った問題は、橋田の財布の問題にとどまらない、かなり深刻な問題であった。少し前、狂牛病問題でアメリカ合衆国からの牛肉の輸入が止まり、牛肉のストックが無くなった時、牛丼店が次々に牛丼販売を停止したからだ。その後、業界はオセアニアからの輸入に切り替えて販売を再開し、余命を延ばしてはいるが単価は高いし、絶対量も不足している。いつ、また販売停止になるか予断はゆるされないのである。

「そんなグチを言ってる暇があったら、君が原因遺伝子を簡単に排除する方法を見つけたらどうだい。皆、喜ぶぞ」
「先生、牛のゲノムって、どの位の長さあるんでしたっけ。人間と似たようなもんですか?」
「おいおい、そんなこと、僕が知るかい。若い君達が知らんでどうするんだね」
「すみません。調べておきます。ゆうたかて、あんなもの、誰も調べてへんとちがいますか」
「うん、牛ゲノムのプロジェクトはあったけどね。どうしたかねえ。まあ、誰が考えても人間と同じ三十億前後だろうけどね。ところで、資料できているかい?」
「あ、はい。できてます。ゆうてくれはったら、持ってきましたのに」

 そう言いながら、橋田は、チューインガムほどの小さなフラッシュメモリを京泉に渡した。
 パソコンのUSBポートに差して使うとハードディスクのようになる。超大容量のフロッピーディスクと言った方が、より正確かもしれない。データの受け渡しにすこぶる便利なので、短時間のうちに普及した。フロッピーディスクと違って、小さいし、LSIだから回転部分がなく、丈夫で邪魔にならない。その上、フロッピーの数百倍以上の容量がある。音楽だってMP3形式に圧縮すれば、CD何枚分も入る。

 京泉はUCBで開催される生命科学の国際シンポジウムの基調講演で、ヒトゲノムの解読に取り掛かった動機と方法論を話すつもりでいる。基調講演は、そのシンポジウムを代表する講演だ。こんどのシンポジウムの参加者は五百名は下るまい。そうすると、十くらいのパラレル・セッションに分かれる。組織委員会の目論見が当たれば一セッション五十名前後の出席者で、発表用の教室が十室要る。

 生命科学と言っても色々と細かな専門分野に分かれている。京泉は主に遺伝子修飾のセッションに出るつもりでいる。彼の興味の中心のゲノム解読はまだ研究者が少なくて、セッションになるほど研究発表論文が集まらない。飛行機の中ででも、参加章と一緒に送られてきた案内を見て、遺伝子修飾のセッションが開かれる教室の場所を調べておくつもりでいる。一度など、それを怠けたばかりに、奥まったところにある教室がどうしても分からず、ようやく見つけた時にはお目当ての発表が終わってしまっていた。

 十のセッションが同時進行でパラレルに走ると、本当は、聴きたい発表がダブったりして困ることもあるのだが、これは仕方がない。テレビなら、片方を録画しておいて後から見ることもできるが、口頭発表ではそれもできない。しかし、基調講演だけは大講堂で行なわれ、その間、他の一切のセッションは走らない。全員が基調講演を聴くことができるようになっている。

 京泉は橋田から、そのシンポジウムで使う基調講演の資料を受け取ると、京泉二研を出て教授室に戻った。

「北沢さん、コーヒ煎れてくれる?」

 スイーツになっている教授室の入り口の部屋の奥にいる秘書の北沢左也佳に声をかけた。左也佳は大学を出るとすぐに京泉の秘書になった。前の秘書が結婚で辞めることになり、後輩の左也佳を京泉に推薦してくれたのだ。いかにもお嬢様大学出のおっとりとした暖かい雰囲気の、愛嬌のある娘で京泉は気に入っている。教授秘書と言っても国家公務員ではない。教授が私的に研究費を使って雇っているのである。国や色々な財団、企業からもらう研究費は実験に使うだけではなくこのような人件費に使えるので、博士課程を出た研究者、いわゆるポスドクも雇うことができる。秘書も同じようなものなのだ。薄給ではあっても、京都大学教授の秘書は若い女性にとっては魅力的な職場である。なにしろ、将来のエリート候補が選り取り見取りなのだ。

「はい。ただいま」
 すぐに、左也佳がコーヒを煎れてくれた。京泉の好物は、ストレートのモカ・マタリだ。あの爽やかな酸味が疲れた頭脳を癒してくれる。時にはキリマンジャロの濃厚な味も良い。この二種が京泉の定番である。

 基調講演の基本は、京泉が作ったプレゼンテーション資料だが、橋田がそれにいろいろアレンジしてくれた。彼はそれが得意だった。京泉にしてみれば、講演会場の大スクリーンに写し出される、写真や、文字からできている説明資料などは、静止している文字で十分だと思っているのだが、橋田によると、前の画面が消えていくときには徐々にフェードアウトし、次の画面はくるくると回転しながらスクリーンに現われる方が聴衆を飽きさせなくていいのだそうだ。文字の色はカラフルにし、筆で書いたような書体を使ったり、陰影も付ける。文字をフラッシュ機能で点滅させたり、電光掲示板のように動かしたり、時には音声や動画も入れる。京泉の作った内容に橋田はそのようなアレンジをしてくれた。内容がない発表は特にこういう見掛けにこだわる。京泉はその種の見掛けだけのプレゼンをする学者に間違われることを恐れた。あまり派手にならなければいいがと、京泉はおそるおそる教授室のパソコンでその「試写」を行なった。