地球最期の日82007年12月06日 22時52分09秒



 翌朝、UCBの講堂で行なわれた京泉の基調講演は喝采の裡に終わった。拍手が鳴り止まぬ中、京泉はプロジェクターケーブルからパソコンを外すと、それを小脇に抱えて演壇から降りた。自分の席に戻る。講演者席は一番前の席だ。そこにパソコンを入れる鞄や、百科事典ほどもある学会の論文集の入ったバッグが置いてある。ようやく拍手を終えた聴衆は三々五々、講堂を出て行く。午後からはパラレル・セッションが始まる。その前に昼食である。学内の食堂に向かう者、車で街のレストランに向かう者。それぞれの二時間の昼休みが始まる。

 京泉の周りには何人もの科学者達が集まっていた。彼と名刺交換するためである。名刺はいまや、世界で使われる日本発の便利なビジネスの道具になっていた。京泉は何人かの科学者達と名刺を交換し、二、三の言葉を交わし、握手をした。中には先生の研究室に留学させてもらえないだろうかといきなり交渉に入る大学院生もいた。そういう相手への対応を終え、京泉はようやくパソコンを鞄にしまうために振り向いた。

 そこに二人、女性が並んで立っていた。一人は昨日、機内で一緒になった楊博士、もう一人は小柄な女性だ。胸の前に揃えた両手に名刺をもっていた。昨夜レストランで会った女性だった。どこかおずおずとしたところがあった。京泉は、何となく二人の女性の間に目に見えない火花が散っているように感じて内心困惑した。

「昨日は、どうも。楽しい思いをさせていただきました。今日の講演も期待していた通り、素晴らしかったですわ」

 楊女史が先手を打って口火を切った。昨日一緒だったという自信が見え隠れしている。しかも、日本語ではなく、英語であった。隣の女性に聞かせているのだろう。

「いえいえ、飛行機でご一緒しただけの方にそんなに誉められるとちょっと照れてしまいますよ」

 困惑しながらも、京泉は、昨日の出会いなど大したことではない、なんでもないということをそれとなく強調して答えた。女性が自分に示す好意に気がつかぬふりをするのは、彼の習い、性となっている。その上、彼も英語で答えた、これももう一人の女性に、彼女とは単に飛行機で隣席になっただけの関係なのだと聞かせるためであった。京泉は彼女を意識しているのである。

 それでも、楊女史と京泉がなんだかよくわからないが、旧知の仲のようにも見えるので、もう一人の女性は横を向いたまま二人の挨拶が終わるまでじっと待っていた。唇でもかんでいるかもしれない。

「先生、お昼はどうなされます?」

 楊女史は食事に誘おうとした。大学の教授はこういう食事は企業の接待費で落ちる事を知っているので大抵は断らない。アメリカの教授などは、ここぞとばかりにブルゴーニュの高価なワインを飲もうと提案したりする者もいる。企業側も、そんなものは相対的に安いものだから、気に留めない。高いと言っても数万にすぎないのだ。まさか百万もするワインがそんなにあるわけではない。京泉は、こういう時、安い食事なら付き合わないわけでもないが、今回は止めた。

「ああ、ちょっと知り合いがいますから」
「そうですか。では、又の機会にでも」

 楊女史は残念そうに言いながら、そっと手を差し伸べた。二度目の握手を交わしてから、彼女は去っていった。彼女の後ろ姿を見送ると、京泉は昨日、レストランで出会った女性に視線を向けた。彼女は京泉の方に向き直り、名刺を差し出そうとしていた。

「ああ、昨日の方ですね」
 京泉が言った。彼女は欧米人にしては小柄な体をますます小さくした。昨日、京泉をうっかり睨んでしまったことを気にしているのだろう。あの後、京泉は彼女を無視して顔を向けなかった。あの時、もう一度目を向けてくれてさえいたら目で失礼を謝ったのにと、彼女は思っていたのだ。

「NIHのリュドミラ・ミラーと申します」
 リュドミラは、名刺を更に前に進めた。京泉はそれを受け取り、自分の名刺を差し出す。

「昨日は失礼しました。あなたが余りに美しいので、我を失ってしまったのです」

 今日のリュドミラは学会という場だからか、昨夜とは打って変わってネイビーブルーのどちらかと言うと地味なジャケットに同色の膝までのプリーツスカートだった。それがかえってリュドミラの清楚な美しさと白い肌を際立たせた。京泉の言葉はお世辞ではなかった。

「そんな」
 リュドミラはますます小さくなってはにかんだ。京泉が気を悪くしているふうでもなかったので、少し安心したことだろう。

 NIHヒト・ゲノム研究所の研究員で理学博士であっても、女性であることには変わりはない。
「NIHですか。そうすると、ワシントン・ダレスからおいでなのですね?」
「はい。昨日の夕方、サンフランシスコに着きました。それでレストランでお会いしたのですわ」
「イーサン・ハート所長はお元気ですか?」
 当然ながら、NIH所長と京泉は時々、学会のイベントで顔を合わせる旧知の仲である。これまでも、国際学会のバンケットでは、ワインを啜り、ローストビーフを頬張りながら長々と議論したものだ。

「ええ、彼は相変わらずとても活発です」
「そうですか。機会があれば立ち寄りたいのですが、なかなか時間が取れなくて。彼に会うことがありましたらよろしくお伝えください」

 京泉はそう言ったが、[私のような駆け出しがNIH所長に会うことなんてまずないわ]と、リュドミラは思っていた。この数日後、しかし、彼女がイーサンに会うことになろうとは、この時、リュドミラに予想がつくわけもない。

「僕はこれからランチですが、もし、よろしければ御一緒しませんか?」
「どなたかとお約束があるんじゃなかったのですか?」
「ええ、でも、いいんです」
「本当に?」
 リュドミラの声が少し弾む。
「本当ですよ」
「それでは、お供させていただきます」
 リュドミラは嬉しそうに笑顔で京泉の誘いを受けた。さっきの女性は親しそうにみえたが、京泉はランチの誘いを断っていた。自分には、誰かとの約束を反古にして誘ってくれたのだ。
「じゃ、僕の車で街に出ましょうか」
「はい」

 二人は講堂を出ると京泉のレンタカーに向かった。リュドミラは大きなショルダーバッグを右肩に引っ掛け、学会からもらった論文集入りのバッグを左手に重そうにぶら下げていた。京泉も同じようなものだ。論文集はCD-ROMにもなっているのだが、やはり、発表中の内容を聞きながら確認したいものなので、紙は捨てがたく、こうして重い思いをしても持って歩くのだ。二人は、バッグをトランクにほうり込むと車を発進させた。大した店もないバークレーを抜けてベイ・ブリッジを渡り、サンフランシスコのダウンタウンに出た。

「中華料理は食べられますか?」
「ええ。大好きです」
「じゃ、中華街で飲茶といきましょうか」
「はい」

 サンフランシスコの中華街は中心部のユニオンスクエアから東に十分ほど歩いたところにある。丘の斜面にあるので、等高線上の通りを歩いている分には楽だが、通りを変えようとするとかなり急な坂を上ったり下ったりしなければならない。横浜の中華街ほどの規模も人通りもない。神戸三ノ宮の中華街程度だ。だからかえって落ちつくことができる。日曜の横浜の中華街などは、人混みがよほど好きで無ければ行くものではない。京泉はそんな中の一軒の中華レストランに車を着けた。

 リュドミラは小柄な割には食欲旺盛であった。京泉と同じ分量をペロリと平らげた。エビ餃子、ふかひれ餃子、肉しゅうまい、春巻き、粽、肉まん、ごま付き団子、杏仁豆腐・・・。
「ミラー博士、いやリュドミラと呼んでいいかな?」
「はい、もちろんです。京泉教授」
「じゃ、僕も、祐介ですよ」
「はい、祐介」
「リュドミラ、そんなに食べて体重は大丈夫なの?こんなこと訊いていいかな?」
「ええ、平気ですよ。私、とても体の効率が悪いのです」
「それで、そんなにスマートなんだね」
「ありがとうございます」
 リュドミラは頬を染めた。アメリカ人とはいえ、好きな男の前では純情なのである。恋愛感情に国境はない。京泉は昨日飲みそこねたジンファンデルを思い出した。あの淡いピンクだと思った。ブラッシュとは良く名付けたものだ。文化的には野暮ったいアメリカ人も時に良いセンスを出すことがあるのだ。

 食事が終わり、京泉はウェイターを呼ぶと、ダイナースクラブのクレジットカードを渡した。自分の分は自分でと、リュドミラは言ったが、年上の男と若い女で割り勘でもあるまいと彼は意に介さなかった。

 ダイナースクラブは、略すとDCになるので、日本で使う場合、時に他の会社のカードと間違えられることがある。
 ある店でのことだ。
「お支払いは、何でなさいますか?」
「ダイナースクラブで」
「DCですね?」
 京泉はその時、絶句した。ダイナースクラブのカードは、DCとの区別がつかないような店で使うカードではないのだとつくづく思った。

 ダイナースクラブは世界最初のクレジットカード会社で、全世界で恐らく一千万を超えるかどうかという程度しか会員がいない。世界、十億の会員を誇るVISAとはそこが違う。量より質なのだ。京泉は欧米のホテルやレストランなどでは若造に見られる。まさか、「博士」とか、「教授」と書かれた名刺をホテルのレセプションや、レストランで出すわけにはいかない。どんなスノブでもそこまではしない。そんな時、このカードが役に立つ。

 ウェイターは貴人に対するかのように恭しくカードを持って精算しに下がった。ダイナースクラブの意味を知っているのだ。
「祐介、一つ訊いても良いですか?」
「幾つでもどうぞ」
「アメリカ人はこんなに大きな国際学会があると、奥さんを連れてくるんですよ。祐介は連れて来ていないんですか?」
「僕だって、連れて行きますよ。どこにでもね。奥さんができたらのことだけどね」
「えっ、祐介、独身なんですか?」
「そうだよ」
「よかった」
 これは小声である。でも、京泉にも聞こえていた。
「何が、よかったの?」
「あ、いえ、なんでもないんです」
「リュドミラ、君は?」
「私?私も独身です」
「そうか、お互い、良かったのかな?」
 二人は声を出して笑った。
「私ね、さっき、祐介が私の前にいた綺麗な人に、ランチを断っていたの聞いて、奥さんと行くのかなと思ったの」
 京泉は微笑んでいる。
「でも、違ってたのね。誰と約束してあったのですか?お友達?」
「いや、急にあの時、約束したくなったんだ。君とね。心の中での先約だよ。いけなかったかな」
 リュドミラは一瞬、ポカンとしていた。頬がピンクに染まってくる。また、ブラッシュだ。
 その頬に片手を当ててリュドミラは下を向いた。

「ねえ、リュドミラ、午後のセッションで絶対に聞かなくちゃいけないものある?」
「絶対にっていうものはないけど、なぜ?」
 リュドミラは染めた頬のまま顔を上げて答えた。その淡いピンクを散らした白磁の可憐な顔を京泉はまぶしげに見詰めた。
「じゃ、これからナパへ行こうよ」
「ナパ?」
「そう。ナパ・バレー」
「でも、さぼっちゃうわけでしょ。いいのかしら。私、報告書が書けないわ」
「そんなもの、京泉教授のレクチャーと書いておけばいいじゃないか。そうしようよ。午後は京泉教授のチュートリアルだ。個人教授ね」
「いけない人。でも良いわ。そうします」
 嬉しそうにリュドミラは言った。頬の照りもおさまった。あのブラッシュをもう少し見ていたかったなと、京泉は残念に思った。

 京泉も、まだ准教授時代や、教授になりたての若い頃は、よくチュートリアルに狩り出された。このチュートリアルというのは大きな学会でよくあるものだ。もっとも、彼がリュドミラにしてあげると言ったような個人教授は前代未聞であった。普通は、その分野の専門家が行なう講義で、学会参加費とは別に聴講料を取られる。聴講者が沢山入れば、これがだいたいは赤字ベースの学会の予算を黒字にしてくれる。

 彼は、今では、チューターは原則として引き受けない。大物すぎるので、一度引き受けると際限なくチューターになってほしいと依頼がくるようになり、本来の仕事ができなくなるからだ。京泉を講師にすれば、聴講者はきっと教室に溢れて、学会の組織委員会や財務委員長はほくほくだろう。

 その京泉がリュドミラ一人にチュートリアルをするというのだ。彼のチュートリアル報告などを書けば上司は頭を傾げるだろう。「京泉教授のチュートリアルなんてプログラムに有ったかしら?それなら私も行くんだった」と。ただし、このチュートリアルの教室は京泉の運転する車の中で、講義内容は雑談にすぎない。本当に報告書が必要なら、京泉のパソコンの中から、何か一つ講演か解説資料をもらっていけば何でも書く事はできる。リュドミラも言ってみただけで、本当に報告書で困るような子供ではない。

 リュドミラにとっては京泉がこんなに自分に好意を示してくれるのは嬉しいことであった。「ひょっとして、彼は私を気に入ってくれているのかもしれない」という期待が湧き上がって来るのを止めることができない。憧れの人と一緒に居られる折角の機会をリュドミラは断ることなどできるはずもなかった。しかも、彼は独身だと言っているのだ。